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■後集17項

有浮雲富貴之風。而不必岩棲穴処。無膏肓泉石之癖。而常自酔酒耽詩。
競逐聴人、而不謙尽酔。
括淡適己、而不誇独醒。
此釈氏所謂、不為法纏、不為空纏、身心両自在者

富貴(ふうき)を浮雲(ふうん)とするに風(かぜ)有り。
而(しか)れども必(かなら)ずしも岩棲穴処(がんせいけっしょ)せず。
泉石(せんせき)に膏肓(こうこう)するの癖(へき)無し。
而(しか)れども常(つね)に自(みず)から酒(さけ)に酔(よ)い詩(うた)に耽(ふけ)る。
競逐(きょうちく)は人(ひと)に聴(まか)せ、而(しか)も尽(ことごと)く酔(よ)うを嫌(きら)わず。
恬淡(てんたんは)己(おのれ)に適(かな)い、而(しか)も独(ひと)り醒(さ)むを誇(ほこ)らず。
此(こ)れ釈氏(しゃくし)の所謂(いわゆる)、法(ほう)に纏(てん)ぜられず、空(くう)に纏(てん)ぜられず、身(み)と心(こころ)の両(ふた)つながら自在(じざい)なる者なり。

財産や地位は浮雲のようなものだ、と知っているにも関わらず、隠遁生活をしようとはしないし、深山幽谷の泉や石の姿に病的と言える位にとり付かれることも無いが、酒を飲み、酔って詩を楽しむ心は持っている。
競争してまでも名誉や利益を求めることは他人に任せて自分の手を汚すことはないが、拝金主義や拝物主義を全否定するわけではない。
また、淡々と生きることが自分に合っているものの、自分ひとりが冷静でいる事を鼻にかけたりしない。
このような人こそ、仏教が示すところの、全ては実体が無いという考えにも囚われないし、全ては実体だとも考えず、身心一如を知って自由自在に生きている。
つまり、達人が目指す本物の悟りの境地は、極論や内外といった二項対立にあるのではなく、それらを両忘し、あるがままに観て、あるがままに生きることなのだ。
言い換えれば、出家の心境をもって在野でも活躍する中庸を悟った人間こそ、達人と言えるのではないだろうか。
慧智(030710)