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■後集62項

古徳云、竹影掃堦塵不動。
月輪穿沼水無痕。
吾儒云、水流任急境常静。
花落雖頻意自閒。
人常持此意、以応事接物、身心何等自在。

古徳(ことく)云(い)う、
「竹影(ちきえい)、堦(かい)を掃(はら)って塵(ちり)動(うご)かず」。
「月輪(げつりん)、沼(ぬま)を穿(うが)って、水(みず)に痕(あと)なし」。
吾(わ)が儒(じゅ)云(い)う、
「水流(すいりゅう)、急(きゅう)に任(まか)せて、境(きょう)常(つね)に静(しず)かなり」。
「花(はな)落(お)つること頻(しき)りなりと雖(いえ)ども、意(い)自(おの)ずから閑(かん)なり」。
人(ひと)、常(つね)に此(こ)の意(い)を持(じ)して、以(もっ)て事(こと)に応(おう)じ物(もの)に接(せつ)すれば、身心(しんしん)何等(なんら)の自在(じざい)ぞ。

禅僧 雲峰志璿(うんぽう・しせん)が言うには、
「階段に映った竹の影を掃除しようとしても、ゴミひとつ綺麗にならない」
「水面に差し込んだ月は、焼き訳つけられたようでも水面に痕跡を残さない」
儒者 邵擁(しょうよう)が言うには、
「水の流れが厳しくても流れに任せ切っていれば、心境は常に穏やか」
「花がどんどん散るのを見ても、自然の様子に心は穏やか」
人は常にこのような心境を維持して、物事に対処していれば、身も心も自由自在なのだ。
つまり、達人は物事の本質である「無」を悟り、心を「空」に置き、自然体で暮らしていれば、自由自在に生きてゆけるということ。
言換えれば、この世の全ては実体ではなく現象であり、心身もまた現象なのだから、とことん自然に任せて生きれば何の苦労も心配もないということ。
慧智(030717)