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■後集66項

峨冠大帯之士、一旦睹軽蓑小笠飄飄然逸也、未必不動其咨嗟。
長筵広席之豪、一旦遇疎簾浄几悠悠焉静也、未必不増其綣恋。
人奈何駆以火牛、誘以風馬、而不思自適其性哉。

峨冠大帯(がかんだいたい)の士(し)、一旦(いったん)、軽蓑小笠(けいさしょうぜん)の飄々然(ひょうひょうぜん)として逸(いっ)するを睹(み)れば、未(いま)だ必(かなら)ずしも其(そ)の咨嗟(しさ)を動(うご)かさずんばあらず。
長筵広席(ちょうえんこうせき)の豪(ごう)、一旦(いったん)、疎簾浄几(それんじょうき)の悠々焉(ゆうゆうえん)として静(しず)かなるに遇(あ)えば、未(いま)だ必(かなら)ずしも其(そ)の綣恋(けんれん)を増(ま)さずんばあらず。
人(ひと)、奈何(いか)んぞ駆(か)るに火牛(かぎゅう)を以(もっ)てし、誘(さそ)うに風馬(ふうば)を以(もっ)てし、而(しか)して其(そ)の性(せい)に自適(じてき)するを思(おも)わざるや。

礼装正装の公務員が、一旦、気楽なファッションでノンビリと暮らす庶民を見れば、その気楽で気ままに見える生活を羨み溜息をつかない人間はいない。
絢爛豪華な敷物の上で暮らす大富豪が、一旦、竹簾の下の簡素な机で読書などして悠々自適に過ごしている人を見ると、羨ましく思わない人間はいない。
にも拘らず何故、俗人は、尻に火が牛を蹴り立てて盛りのついた馬を呼ぶように、功を為し名を上げ富豪になることを追い求め、自分の本性に合った生き方をしようと思わないのだろうか。
つまり、全ては「縁」を媒介に現象している社会、世界では自然体で淡々と暮らしていれば、分相応の機会に廻り合い、それを自然の流れとして一心不乱に担っていれば自然体で自己を実現できるという法則を示している。
言換えれば、達人はこの因縁果の律を知り尽くし、一日を一生と思い、今すべき事に一意専心している人間だと言える。
慧智(030718)