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■前集169項

心虚則性現。
不息心而求見性、如撥波覓月。
意浄則心清。
不了意而求明心、如索鏡増塵。

心(こころ)虚(むな)しければ則(すなわ)ち性(しょう)現(あら)わる。
心を息(とど)めずして性(しょう)を見(み)んことを求(もと)むるは、波(なみ)を撥(ひら)きて月(つき)を覓(もと)むるが如(ごと)し。
意(い)浄(きよ)ければ則(すなわ)ち心(こころ)清(きよ)し。
意(い)を了(りょう)ぜずして心(こころ)を明(あき)らかにせんことを求(もと)むるは、鏡(かがみ)を索(もと)めて塵(ちり)を増(ま)すが如し。

心を沈静して空しくすれば、本性(ほんしょう)が現れる。
心を動揺させたまま本性を見ようとするのは、波をかき分けて月を見ようとするのと同じである。
表層の意識が清ければ、本性も清い。
意識の整理をしないで本性を見ようとするのは、汚れる鏡で自分の姿を見ようとするのと同じである。
つまり、本当の自分を知ろうとするなら、先ずは意識的に心を静めてからでないと、本性は見えないということである。
言い換えれば、活人は、先ずは形式を重視して坐禅を組み、心を穏やかにして本性を見ろ、ということになる。
翻って言えば、活人は、有為自然から無為自然。形式から本質。対症療法から根本療法へという転位転換を心がけなければならない。
慧智(030627)