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■後集55項

世人只縁認得我字太真。
故多種種嗜好、種種煩悩。
前人云、不複知有我、安知物為貴。
又云、知身不是我、煩悩更何侵。
真破的之言也。

世人(せじん)、只(ただ)我(が)の字(じ)を認(みと)め得(う)ること太(はなは)だ真(しん)なるに縁(よ)る。
故(ゆえ)に種々(しゅしゅ)の嗜好(しこう)、種々(しゅじゅ)の煩悩(ぼんのう)多(おう)し。
前人(ぜんじん)云(い)う、「複(また)我(が)有(あ)るを知(し)らず、安(いずく)んぞ物(もの)の貴(とうと)しと為(な)すを知(し)らん」。
又(また)云(い)う、「身(み)は是(こ)れ我(が)ならずと知らば、煩悩(ぼんのう)更(さら)に何(なん)ぞ侵(おか)さん」と。
真(まこと)に破的(はてき)の言(げん)なり。

俗人は、兎に角「俺が、俺が」で、自分に対し余りにも執着が強い。
だから、いろいろな趣味に手を出しては煩悩に悩ませられているのだ。
昔の人も言っているが、「俺が俺がと言っている事に気付かずに自意識があるので物の大切さが解かるのだ」陶淵明第3巻「飲酒」の部分引用。
そこでまた言われていることは「身体が自分の物でなくことに気付けば、それ以上に煩悩で苦しむことは無くなる」。
何とも、的を射た言葉だろうか。
つまり、強欲は無欲に通じ、我は無に通じ、煩悩は悟りに通じているということ。
言い換えれば、達人は嘗てギラギラしていた人間の方が素晴らしい気持ちで生きてゆけるだろうか、ということだ。
慧智(030717)