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■後集118項

人心多従動処失真。
若一念不生、澄然静坐、雲興而悠然共逝、雨滴而冷然倶清、鳥啼而欣然有会、花落而瀟然自得。
何地非真境、何物無真機。

人心(じんしん)多(おお)く動処(どうしょ)真(しん)を失(うし)う。
若(もし)一念(いちねん)生(しょう)ぜず、澄然(ちょうぜん)静坐(せいざ)せば、雲(くも)興(おこ)り悠然(ゆうぜん)として共(とも)に逝(ゆ)き、雨(あめ)滴(したた)りて冷然(れいぜん)倶(とも)に清(きよ)く、鳥(とり)啼(な)いて欣然(きんぜん)として会(かい)する有(あ)り、花(はな)落(お)ちて瀟然(しょうぜん)として自得(じとく)す。
何(いず)れの地(ち)か真境(しんきょう)に非(あらざ)れば、何(いず)れの物(もの)か真機(しんき)無(な)からん。

人の心は、活動中にその本質を見失う。
もし、僅かな雑念も無く、清清しい心の状態で静坐すれば、雲が湧き上がれば雲と共に悠然と流れ、雨が降れば冷静さを得て清められ、鳥が鳴けば嬉々として鳴き声と一体化し、花が散れば大自然の営みの真理を見出せる。
どんな場所にも真理が現象していない処はなく、どのような物質にも真理が投影されている。
つまり、大自然の真理である「全ては現象である」という原理原則は宇宙といっあ極大の世界から素粒子におたる極小の世界までを貫いている。
言換えれば、達人は自分自身を極大と極小の交点と捕らえ、大自然を永遠に旅する存在と位置づける事が必要だろう。
翻って言えば、人間の生死など所詮は転換点の一種であり、取り立てて大きな問題では無いといえるだろう。だからこそ、在るがままの自然体で生きることが摂理なのだ。
慧智(030728)