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■後集91項

白氏云、不如放身心冥然任天造。
晁氏云、不如収身心凝然帰寂定。
放者流為猖狂、収者入於枯寂。
唯善操身心的、欛柄在手、収放自如。

白(はく)氏(し)云(い)う、「身心(しんしん)を放(はな)ちて、冥然(めいぜん)として天造(てんぞう)に任(まか)するに如(しか)ず」。
晁(ちょう)氏(し)云(い)う、「身心(しんしん)を収(おさ)めて、凝然(ぎょうねん)として寂定(じゃくじょう)に帰(き)するに如(しか)ず」。
放(はなつ)者(もの)は流(なが)れて猖狂(しょうきょう)と為(な)り、収(おさ)むる者(もの)は枯寂(こじゃく)に入(い)る。
唯(ただ)善(よ)く身心(しんしん)を操(あやつ)る的(もの)は、欛柄(はへい)手(て)に在(あ)り、収放自如(しゅうほう・じじょ)たり。

白居昜(はっきょい)は、「心身を開放して、真底、大自然の原理原則に委ねてしまう事に及ぶものはない」
晁補之(ちょうはし)は「心身の働きをとことん落ち着かせて、三昧の境地に入ることに及ぶものはない」
拡散された者は無軌道になり、保全された者は枯れた状態になってしまう。
しかし、心身を一如として自己を上手に扱える者だけは、本質を捕らえて自由自在な生き方が出来る。
つまり、両極端を忘れて心身の調和を実現できる者だけが、達人の域に達することが出来るだろうと、いう事だ。
言い換えれば、達人の思考や行動は、過ぎたるは及ばざるが如し、を実践している
慧智(030723)