«« ■後集123項 | メイン | ■後集125項 » »

■後集124項

栽花種竹、玩鶴観魚、亦要有段自得処。
若徒留連光景、玩弄物華、亦吾儒之口耳、釈氏之頑空而已。
有何佳趣。

花(はな)を栽(う)え竹(たけ)を種(う)え、鶴(つる)を玩(もてあそび)び魚(うお)を観(み)るも、亦(また)段(だん)の自得(じとく)する処(ところ)有(あ)るを要(よう)す。
若(も)し徒(いたず)らに光景(こうけい)に留連(りゅうれん)し、物華(ぶつか)を玩弄(がんろう)せば、亦(また)吾(わ)が儒(じゅ)の口耳(こうじ)、釈氏(しゃくし)の頑空(がんくう)のみ。
何(なん)の佳趣(かしゅ)か有(あ)らん。

花を植え竹を育て、鶴を飼い慣らし魚を鑑賞するにも、何かの気付きが無ければならない。
もし、漫然と景色を眺めて外観に心を奪われていては、我々儒教者が言うところの「身にならない行為」であり、釈尊が言う「無いものに囚われ拘る生き方」
なのだ。
こんなことでは風流と言い難い。
つまり、一見では達人と思える風流人でも、外観に気を取られ、本質を観る事が出来ていなければ、俗人であり、無駄な時間を使う人生だということ。
言換えれば、達人とは如何なる状態にあっても、概観に囚われず、見るもの聴くものに本質を見出す心がなければなりません、ということだ。
慧智(030728)