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■後集95項

理寂則事寂。
遺事執理者、以去影留形。
心空則境空去。
境在心者、如聚羶却蚋。

理(り)寂(じゃく)なれば則(すなわ)ち事(こと)寂(じゃく)なり。
事(こと)を遺(や)りて理(り)を執(と)る者(もの)は、影(かげ)を去(さ)りて形(かた)を留(とど)むるに似(に)たり。
心(こころ)空(くう)なれば則(すなわ)ち境(きょう)空(くう)なり。
境(きょう)を去(さ)りて心(こころ)を在(そん)するは、羶(せん)を聚(あつ)めて蚋(ぜい)を却(しりぞ)くるが如(ごと)し。

真理が静寂であれば、現象もまた静寂である。
現象を捨て去り、真理に取り付かれている者は、影を無くして形を残そうとしているようなものだ。
心が空(くう)ならば、現象もまた空(くう)である。
現象を捨て去り、心を留めようとするのは、生肉を集めておいて蚊やブヨを追い払おうとするのと同じだ。
つまり、何の拘りもなく、何の囚われない、正に“あるがまま”が真理の姿であるにも関わらず、それに拘り、囚われいるのであれば、本末転倒である。
言換えれば、達人が自然体で生きていることに拘り囚われていては、最早自然体とは言えないのと同じである。
翻って言えば、真理を知って真理に囚われないのが、本物の達人と言えるだろう。
慧智(030723)