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無(む)について

「無」、この一字のために、どれだけ多くの修行者が汗や涙を流し、工夫を続けたことか。
この「無」が天下の大事となったのは、趙州禅師に発端がある。今や衆智の「狗子に仏性、有りや、無しや」と趙州禅師に問うたことから、お前、生きているのか、死んでいるのか、と聞かれたらどうする。趙州禅師はただ「無」と答えた。ところが、別の修行者が同じことを聞いたら「有」と答えた。文字の概念では決定的に矛盾している。 このことは、二項対立の概念で物事を考えている限り理由は永遠に解らない。つまり、俗の知性では只ただ迷い考え続けるだけになる。ご存知のように、「判断」とは概念の統合化であり結果的には単純化である。つまり、いつでも「無」と答えているか、いつでも「有」と答えていれば、一般的な知性を有する人間はその真意を理解できるかどうかは別にして命題そのものに対する疑問は持たない。ところが、「迷う」ということは、概念は、換言すれば「思い込みであり、意味付け」であり、それに囚われ、現実や常識をとの間に齟齬や乖離が生じているからである。 前出の命題において、「無」を無いという概念でしか理解することが出来ず、「有」を有るとしか理解していなければ、矛盾を処理することは出来ない。我々多くの人間は、言葉を覚え始めた時から「概念」という自分の世界として作り上げ、高次な概念である「愛」であれ「慈悲」であれ「存在」であれ、概念こそ正しく「自己」そのものなのである。 ところが概念とは観念現象であり、知性の働きの源泉を形成しており、一つ事象に対して、同時に「有る」と「無い」との両極方向を求められると、知性は混乱し機能しなくなる。つまり、「無」を真とすると「有」は偽となり、「有」を真とすると「無」が偽となる。言い換えればブレークイーブン(相殺関係)にあるからだ。 つまり、趙州禅師ともあろう賢者が矛盾しているはずがないことを前提に考察すれば、禅師は言葉の世界には居ないということなのだ。つまり、禅師は「無」と「有」という二項対立の概念世界には存在していないのである。言い換えれば、二項対立を越えている世界こそが、「悟り」の世界なのである。 この「無」も「有」も悟りそのものの世界であり、概念での有る無しでは決してなく、当然に分けるものでもない。
つまり完全なる超越の世界を、たったの二語、「無」「有」という言葉で片付けてしまったものだ。そこで知性の束縛を離れ、只「無」ばかりになって全自己を「無」に淘尽し尽くせば、そこが本当の「無」の世界と現成して、趙州禅師と我々の世界に壁はなくなる。悟りの一大事である「因縁」は個人が所有し管理できる世界ではないからである。「無」とは即ち超越なのである。 さて、公案に話を戻すと、公案自体が、腹に一物あるほどの修行者の発言であり、軽率に有るとか無いとか言おうものなら、たとえ和尚であろうと、顔が腫れ上がるほど殴られたろう。ところが、趙州禅師は質問を逆手にとり、こいつの修行のレベルはどうかと、引っ掛かり易い、有る無いという相手の言葉を借りて、相手が問いだしてきた舟の上で、概念の超越即ち自己超越がどれほど進んでいるのか、チェックしたのだ。 つまり、我々、禅の指導者は、修行者に悟りを得させることしか目的はない。
如何なる場合に於いてもその事として対応する。だからそうした質問への答えは、決して概念での正答ではなく、言葉上の有るとか無いとかには関わらない。一見不透明で、且つ矛盾する言語を駆使するのはそのためなのである。 花は花、山は山なのである。ならば「無」とは如何。「無」はただ「無」なのだ。頭ではその事が分かっていても、疑問が残るのは「概念」による邪推なのである。概念にして如かず、如何なる事象、事物においても拘り・囚われ・偏りなどの邪推を徹底的に脱落させると、そこには、本当にそうだと決定(けつじょう)が付き、「無」が「無」であるほど確かなことはないし、それ以外の何ものでもないことが解かる。 つまり、何も理屈がないところが「無」であるということなのである。
凡智は、まだ何か有りそうに詮索するのに色々知性的な考えを動員し、理念的に概念の探索をしてしまう。そして情報だ経験だ知識だと所詮は過去の産物である概念から、観念現象が始めさせ、知性だ精神だと言いながら、持てる総てを動員して考えるから貧理に迷い苦悶するのだ。  無は無以外の何ものでもなく、定義を捨ててはじめて「無」が無になるのである。そしてそれが体現できれば、人生の総ての問題が解決するということなのだ。
慧智(030806)   
№188 2003-08-06 (Wed)