...
 

禅とは自由になること

 今の我々の生き方は決して完璧とは言えない。自分がそれと認識できているか、いないかに関わらず、いろいろな誤りを犯すし、時として自分に恥じる行為をしてしまう事もある。また、耐えられない程の屈辱を受け、悩み、苦しみ、恨みを抱く事もある。そして、ある種の人間は居直り、ある種の人間は引き篭もり、大半の人間は問題を摩り替え、極僅かな人間は自ら死を選ぶ。しかし、我々が如何なる態度を選択しようと、それは社会的に生き続けようとする心理の投影であることは事実なのだ。つまり、誰しもが過去の問題を完全に総括して「今」という瞬間をむかえている訳ではなく、過去の痛手を払拭できている訳ではない。にも拘らず我々はそこそこ健康に生きている。言い換えると、人間が種の淘汰を越え、ここまで生き延びて来れた生物である証拠として生理学的な免疫機能、恒常性維持機能があるのと同様にように、心理学的にも同様な恒常性維持機能があるといえる。それは「経験」の認識という情報の処理過程で、処理を先延ばしにして情報処理されなかったものと、情報処理廃棄物のように「ゴミ箱」に入れたままになっているものや、未処理のまま置き忘れているものが混在状態にある。そしてそれらが、良きにつけ悪しきにつけ言語・非言語の区別無く「記憶」として存在し、時としてそれが薬にも毒にもなり、現在と未来の行為に悪戯をするのである。その結果、我々は時として過激に、時として臆病に過剰反応を起こしてしまうのだ。
 人生は、結果が原因を変え、原因が結果を変るということは誰しも体験的に知っている。言わば人生とは一瞬一瞬の連鎖反応であり、一瞬一瞬に岐路があり、常に変化するは事実と言える。だからこそ、過去から多くの人間が苦しみを逃れる方法論を考え続け、ある者はゼロベースから、ある者は、多くの考えを寄せ集めて挑戦してきた。勿論、大半の人間はそれを真剣に考えることなく多数派の考えに身を委ね、自己責任を放棄してきたのも事実である。だからこそ、現存する宗教の大半は、似て非なる固有の教えを持っている。つまり、苦しみを脱する方法論の既製品であり、欲しければ選べば良いし、要らなくなれば殆どは捨てられる。その典型が“困った時の神頼み”なのだ。しかし、それはそれでも良いが、人間は何かに依存しなければ生きていけない存在であるという認識があればである。人間は一秒たりとも空気への依存を止めることは出来ないし、水、食べ物、睡眠への依存停止も生物学的な死を意味する。同様に心理学的な死、社会学的な死から逃れる為には「何に」依存しているか思い出してみよう。そこに「人・物・金・情報」が入り乱れる依存対象が成立している。人間の深層心理には「刷り込み」という特性があり、生を受けた瞬間から母親に依存し、成長するにつれて依存の範囲を広げ、依存対象を分散することで依存度を下げてゆく。そして極限まで依存を拡大した人間は「他力」に徹することが出来、極限まで縮小した人間が「自力」に徹することになる。しかし、結局は自分自身というあやふやな存在に依存することになるのだ。
 さて、「禅」とは、いったい何のためにあるのだろう。我々は時として何の為に生きているのだろう、と感じる瞬間がある。本当の自分とはいったい何者なのだろう? 禅は言葉でそれに答えることはないが、内なる「智恵」を導き出してくれる。その為に坐禅という方法がある。坐禅は、あれこれ考えずに、釈尊が悟った方法を真似して只管に坐ること。坐っていると、 ふっと、空っぽの自分を感じ、次の瞬間ありのままの「自然」が起き上がってくる。 それが悟りの心境なのだ。ところが、禅では悟って終わりではなく、「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺せ」というように、悟後においては全てを捨てることを要求する。何者にも囚われず、縛られず、執着せず、今ここにいる自由な自分だけが真実、つまりは無一物になれという。その時、本物の「自由」に気付く。自由とは、自我の執着が抜けきった状態をいうのだ。その時、心は自由自在となり、融通無疑に周囲が動き出し、己の世界の主人公になったことを感じる。結果、生きている時は精一杯に生き、死ぬときは精一杯に死ねばよいということになる。これが「あるがまま」であり自由の意味なのだ。

慧智(030822)
№215 2003-08-22 (Fri)