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時と時間

以前にも書いた事があるが、禅堂で時を告げる『木板』という『時を知らせる鳴り物』に書かれている「生死事大、無常迅速、各宜覚醒、慎勿放逸(しょうじはじだいにして、むじょうじんそくなれば、おのおのよろしくかくせいし、つつしんでほういつすることなかれ)」(臨在宗系に多い)ないし、「生死事大、光陰可惜(こういんおしむべし)、無常迅速、時人不待(ときひとをまたず)」は、“時間”ではなく、“時”を大事にしろという意味です。 意味は、両方とも似たような内容で、「生死は悟りにとって一大事である。ところが時間は無常にもドンドン過ぎてゆく。各人は、それに気付いて精進し、時間を無駄にしてはならない、ということです。  「その時まで、あと何時間あるか」などと言うように、時とは“事”であり、『生きている時』を示しています。ご存知の通り、釈尊は『霊魂』の存在について語らない、ということで、暗に“無い事”を示しています。つまり、生まれ変わり、死に変わりは無いということです。ですから『生き方、死に方』を人生で最も大事と言っています。翻って言えば、生きている間には多くの出来事があり、そこには沢山の物事との関わり、出会いと別れが常無く連続的にあります。それ故、一分一秒を無駄にすることなく、「すべき事・したい事・出来る事」は迅速に行い、それに真剣に対峙し、一瞬たりとも油断するなと言っているのです。そのためには何が必要か。当然、時と時間の意味を知ることです。時は事と言いましたが、事はいつ始まり、時間はいつ出来たのか。極めて科学的、哲学的な命題です。正しい仏教は、それを探求し、事の大事を知って、生きる事の大切さを自覚して実践することを眼目としています。その方法論については八正道などとして語られ、全てを覚る方法であり、覚りそのものが“坐禅”だと解いています。坐禅は、自らの潜在意識をトコトン信じることが入口で出口です。仏教にもいろいろと宗派があり、難行苦行をもって悟りに達しようという勘違いしたものも存在します。難行苦行は、脳内世界(心の世界)で脳内麻薬を噴出させて幻想を見させるもので、LSDを飲むのと対して違いはありません。坐禅はそのような体外、体内の物質に依存する修行ではなく、心身一如、心と体を一体として宇宙そのものを体現するのです。一見、簡単そうで、実は難しのです。言い換えれば誰でも出来るが、誰でも悟れると限りません。そこが禅が高尚だと言われる所以でしょう。私は他宗の修行法を否定するつもりはありません。それはそれで極めつくした方は素晴らしいと思います。継続は力ですから。そして、衆生救済という側面から、苦しむ者を、方便を使っても勇気付け、しっかりと生きることを教える事も素晴らしいことです。しかし、対処療法的に素晴らしい効果があっても、いつかは根本療法が必要となり、事実を教える必要があるのです。事実とは無常です。生きてる時間は減少し、必ず死が訪れるということです。死は素晴らしい事です。死は正に利他の結晶です。己の体を宇宙の全ての存在に捧げることです。『生き物』とは、生きた物であり、次は『死に物』という物として現象世界に永遠に存在します。『生』とは、一瞬の輝きのようなものです。知れ故、苦であろうが、楽であろうが、悲しかろうが、嬉しかろうが、どんな状況でも素晴らしいのです。一分一秒、不要な時間はありませんし、どんな時、事も必然です。それが縁というものです。生きるとは何と素晴らしいことでしょう。
慧智(040329)元気になる会での法話から
№386 2004-02-29 (Sun)