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「禅」は宗教か? 

 宗教の中核に「救済」という衆生の人生における辛苦を緩和する役割があるが、禅宗においては、キリスト教のそれのように「不幸」を「幸福」に、「貧困」を「清貧」に、「愚」を「賢」に、「肉体の不自由」を「精神の自由」へ置き換える、つまり二項対立の対立関係を「逆転」させるという方法はとらない。  何故なら、「逆転」の発想こそ正に二元論の真骨頂であり、二元論の対極同士の重みを変えるようなシーソ型の論理であり、否定的結果を肯定的過程へ昇華させ、結果を先送りさせる認知協和化という心理効果を期待した“読み替え”なのである。  一方、禅宗は、その「禍」に対しての「福」、「苦」に対しての「楽」という二項対立そのものを看破しようとしている。つまり、「無対立」概念である「禅脳思考」を会得してしまえば、「苦」と「楽」という概念が消滅し、「あるがまま」の状態は感情の対象ではなくなり、全ての現象に○や×という評価を行わないのである。言い換えれば、大衆の現実にある「有・無」という評価概念が禅脳思考の禅者には無いのである。  つまり、前出したシーソー、静止状態から開始される円弧運動にアナロジーして解説すれば、キリスト教の発想では「低い」状態は高くなる過程であり、高い方が厳しい状態であると説き、「高い」状態は低くなる過程であると戒め注意を喚起している。謂わば奴隷の現状否定の論理、ルサンチマンが連想され、虐げられた側の論理を背景にしているようだ。キリスト教は、それ故に抵抗運動と結びつき易いし、文明思考の幸福追求に向うのだろう。  一方、禅では、シーソーは支点を中心に連続した円運動しているようで、始めと終わり、右と左、高と低いう事実は一瞬の通過点で、そこに高い・低いなどの両極などは存在せず、流転する瞬間としてみている。従って、「苦」と「楽」は区別出来ないし、しないのである。言い換えれば、苦と楽というような二項対立に起因する評価に何の意味も「無い」と説いている。つまり、それは市民の現状肯定の論理であり、闘争に意味を見出さず、安心に気付かせるのが禅ということだ。  言い換えれば、キリスト教は電気でいうなら「直流システム」であり、単純明快で解り易く、神から民への一方通行に対し、禅は「交流システム」のように神と民という両極を存在させないので、対極が相互浸透したエレクトロン現象やアモルファスの概念を内在させているのである。つまり、「物」の論理であるキリスト教に対し、「事」の論理である禅(大乗仏教)という位置づけと言える。  総括すれば、キリスト教は「求めよ、さらば与えられん」であり、正しく「宗教」であるが、「求めるな、全ては自分が持っている」という禅は果たして「宗教」と言えるのだろうか。それは寧ろ哲学といった方が合理的ではないだろうか。  勿論、宗教=「宗たる教え」として価値・概念の体系が宗教であると定義すれば、禅は完全なる宗教だが、「絶対者=神」と人間が再び契約関係となるというのが宗教であるとするなら、禅は宗教として認められないだろう。 *religionは一般的に「宗教」と訳されるが、(re=再び)+(ligion=神との結合)という語源かた考察すれば、神という絶対者を持たなければ宗教ではないことになる。因って禅は欧米においては「ZEN]は生活スタイルとして浸透しているし、坐禅はキリスト教信者にも受け入れられているのだろう。
慧智(030826)
№219 2003-08-26 (Tue)