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空(くう)について

難解では「無」と同様に難解な概念が「空」である。簡単に言えば、仏法とは「一切皆空」である。つまり、全ての経は「空」の解説だと考えても宜しい。総ての物事に固定した中心というような概念は無い。言い換えれば具象は無く流動である。また事象についても理論についても同様に固定した中心はなく流動するが故に全てが中心であり、全てが縁(ふち)でもある。そこから全ては「縁(えん)」、即ち条件と関係性により現象していると考えるから、全ては「自由自在」であると言っている。また、「縁」が作用するのは「因」と「果」の間であり、因は果であり同時に縁でもあるから、果は因であり縁でもある。これは色即是空、空即是色と8文字で簡潔に言い表している。換言すれば、因があれば必ず縁に触れ果があり、その果は因と化すと言うこと。これが仏教で説く「宇宙の姿」である。多少なりとも物理科学の知識があれば、「空間-素粒子-原子-分子→物→惑星→星雲→宇宙→空間」という循環階層化が連想でき、極大と極小が相互浸透することが理解できるはず。そして我々は位置は、まあ「物」の位置にあり、物の集合が「人間という存在」であり、物の構成要素が人間という存在である。言い換えれば、心身共に現象であり空であるから、その一生を因縁のままに在ると言う事なのだ。変化とは、縁による変化であり、逆行することは無く、経過するだけである。即ち仏法では固定した「主体」「客観」という概念は方便で使う以外に無い。何故なら全ては「縁」により展開して現象している「空」であるからだ。簡単に言えば、我々の一瞬は空の活動であり、空は現象でも勿論、存在でもなく、空も又空なのであるから、「一瞬」だけの世界である。 ここで、イメージ出来るか誤解する博打のような説明をすると、常識的な概念である「空間」から「間(かん)」を取り去ってみると、「空」であることも分かるし「空」もないことが解るだろう。そこでは一瞬が連続して起きているのだ。扇風機がゆっくり回れば風が起きて羽根が見えるが、早く回ると風だけを感じて羽根すら見えず、向こうが見える。羽は物質だが物質はとことん細分化して行けば無に近付く空であり、無が回転していると考えれば空である。そして眼前に現象している状態は、一瞬であり、一瞬は止めることが出来ず、一瞬前の世界は既に消滅し、一瞬後の世界は決定付けられていない。つまり、完全なる現実の一瞬とは、完全なる結果の消滅の世界であり、縁により現象する。 道元は、「薪が燃えて灰になるのではなく、薪は薪、灰は灰の法位に在る」と言う。まあ、薪を燃やしている途中で止めれば薪と灰の間が見えるように、一瞬一瞬の連続が縁に触れて変化する場が空で、変化する場もまた空である。言い換えれば場は空の姿であり一瞬の顔である。 我々の人生とは、眼耳鼻舌身意が色声香味触法として一瞬一瞬展開し、物に見えるが物は事であり、事は物でもある。つまり物事は相互浸透しており、相互浸透できるのは「この世の一切が皆「空」だからなのだ。
慧智(030807)
№189 2003-08-07 (Thu)